吉川 晃司(きっかわ こうじ、1965年8月18日 - )は、日本のミュージシャン、俳優。本名、同じ。戦国大名毛利元就の次男・吉川元春の子孫。
小简介
広島県安芸郡府中町出身。自身設立の所属事務所、アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長。身長182cm。血液型はB型。
1984年、シングル『モニカ』で歌手デビュー。『LA VIE EN ROSE』、『KISSに撃たれて眠りたい』、『VENUS 〜迷い子の未来〜』や布袋寅泰とのユニット、COMPLEXでの『BE MY BABY』などのヒット曲で知られる。また、デビュー当時は映画に多数出演しており、一時期は俳優業からは遠ざかっていたが、近年映画で活動している。
府中小学校出身(宇梶剛士も2年まで在学で先輩、竹原慎二は後輩になる)。修道高等学校(現在の修道中学校・修道高等学校)中退。
父親は若い頃、京都の太秦で大部屋俳優をしていたが、実家の料亭を継ぐため俳優を諦め板前になったという経緯を持つ。吉川が幼い頃、店が火事になり廃業し、その後喫茶店の経営やタクシー運転手などをした。
デビュー当初はヴォーカル専任であったが、現在は歌以外に作詞・作曲・演奏・プログラミング・プロデュース等幅広く手がけ、「PANDORA」「JERRY FISH&CHIPS」など様々な作品を世に送り出している。
俳優としての活動は、デビュー作の『すかんぴんウォーク』(うる星やつら・ビューティフルドリーマーと並映)および『ユー・ガッタ・チャンス』(少女隊主演のクララ白書と並映)『テイク・イット・イージー』の通称「大森三部作」が有名。音楽に専念するため役者は一時封印するが後年、再び映画に出演し始める。渡辺プロ時代の「シャタラー」以来十数年ぶりに三池崇史監督作品『漂流街』に出演。独特のオーラと存在感に高評価を得る。この作品において三池監督と意気投合。その後の三池作品、プロモーションビデオ、ライブ撮影と繋がっていく。三池監督は吉川について「存在感が凄すぎて気軽な役には使えない。特別な役にもってこいな人。吉川さんはスペシャルな血が流れてますね」と語っている。『天国から来た男たち』『レディ・ジョーカー』など、ほぼ年一本のペースで映画にコンスタントに出演している。
「駆け出しのころは歌手一本では食っていけなかったので、副業もこなせたらいいなと思って俳優業をしていた」とTV番組で後年回想している。
『ザ・ベストテン』での数々のパフォーマンスも有名。最も知られているのは出身校・修道高校のプールでのバク転飛込みだが、毎回出演時には視聴者を驚かす演出を自ら考案して楽しませた。この頃は日本におけるヴィジュアル系の走りとも言われる沢田研二がテレビに出なくなった時期で、安全地帯の玉置浩二とともに、続いて男の化粧を認知させたと言える。また吉川デビュー時の衣装、ノータイ、白スーツは街に“偽吉川”を溢れさせた。同時期活躍したチェッカーズのタータンチェックともどもよく流行った。若い頃吉川に似てると言われた元プロ野球選手の新庄剛志は、吉川のファッションをよく真似ていた。また髪に色を付けたり立たせたり新しい髪型を考案するなど、いわゆる男のおしゃれ、男性ファッションを認知させたスターである。当時、日曜朝にラジオ番組を持っていた小泉今日子が「チェッカーズや吉川クンに負けてるよ女の子たち」と言ったことがある。
デビュー当時はアン・ルイスに大きな影響を受けた。
体育会系のノリで広い交遊を持った。アン・ルイス、チェッカーズ、尾崎豊、とんねるず、大沢誉志幸、岡村靖幸、氷室京介、布袋寅泰、布川敏和、本木雅弘ら。特に尾崎豊と岡村靖幸を交えた3人の仲は親友として有名だった。まだ彼らが若かった頃、飲みに行く際に「じゃんけんをし、勝った者が行き先を決めることが出来る」という方法で飲みに行く先を決めていたそうで、吉川が勝つとひたすら飲む、尾崎が勝つと女を口説くことが出来るクラブ、お酒が苦手な岡村が勝つとディスコ(岡村は、ディスコであの独特の踊りをずっと踊っていたそうである)に行っていたそうで、「昔は3人で無茶なことばっかりやっていた」と述べている。尾崎が亡くなった時は、友人代表としてお悔みを述べ、岡村が不祥事を起こした際は、「自分のケツは自分で拭かないとね。でもきっと、スリムになって戻ってくるんじゃないかな?」と気遣うコメントを述べている。
初期の頃の専属バックバンドは、PaPa。このスタイルは、沢田研二の井上堯之バンドや、EXOTICSを真似たものであると思われる。ただし、PaPaはTVや映画、ライブ等「見える場所」では共演していたが、レコーディングには参加していない。
吉川のファッションといえばサングラスである。吉川がサングラスを常用した動機は、細いキツネ目にコンプレックスがあったためと言われている。現在はサングラスをどんな時も外さなくても、批判をされるような事は無かったが当時は批判を受ける事があった。主なものに岡田有希子の葬儀参列がある。
上條淳士の漫画作品『TO-Y』(1985〜1987年)の主人公のライバル・哀川陽司のモデルであり、作者との対談(サンデーコミックス一巻収録)もしたことがあるが、その時まで自分では気づいていなかった。
「音楽を真面目にやってるミュージシャンも、テレビに出ないとだめだ」と言い続けていた。これは渡辺プロに在籍している以上、テレビに出る仕事は避けられなかったが、テレビに出演していく内に、テレビの影響力を自ら肌で感じ、「上手い具合に出演すれば、ミュージシャン自身の向上にもつながる。」と考えるようになったためである。その為、吉川自身がテレビに出なくなると、ファンは「自分がテレビに出ないとダメだと言っておいて、なぜテレビに出ないのか?」と非難をする為、本人もテレビに出るようにしている。COMPLEXで活動中、テレビ出演を殆どしなかったため、「布袋に遠慮している」と非難されたことがある。
最近では当たり前になった「CD + DVD」2枚組は、吉川の作品「I WRITE THE SONGS」が業界で初めてといわれている。
傷害事件時期にシングル『KEY 〜胸のドアを暴け〜』をリリースし、アルバムプロモーションも兼ねて『HEY!HEY!HEY!』で同曲を収録(傷害事件によるプロモーション自粛により未放送)。このときの収録でダウンタウンの浜田に傷害事件を突っ込まれ「氷山の一角?」、松本に「新曲タイトルは、ハードパンチャー鼻を殴らせろ」とからかわれ、会場の大爆笑を誘った。その翌年に吉川が同番組に出演した際も「ワン、ツー、スリー?」とネタにしていた。
所有車は、フェラーリ512TR、アストンマーチンV8である。スープラ、コルベットと乗り継いで現在に至る。
三国志をはじめとする中国史マニアである(日本史にも少し精通)。別冊文藝春秋2005年1月号では中国歴史小説家の宮城谷昌光と対談しており、中国史について並々ならぬ知識の片鱗をのぞかせている。また、北方謙三とも交流があり、北方氏は対談した際の感想で「深く掘り下げた質問をしてくるし、細かい所まで良く知ってるし、こいつは何で中国史をこんなに勉強してるんだ?音楽やってるんじゃないのか?」と述べてる。吉川自身CD BOOK『エンジェルチャイムが鳴る前に』のなかで小説を執筆している。
2007年6月10日放送分の『ジャンクSPORTS』芸能人アスリートSPにて、かつて修道高校で日本の水球界で知らない人間はモグリといわれる程の名選手として一世風靡した時のエピソードを披露。午前4時に起床→地元の獲ったばかりの生牡蠣を冷凍庫に入れるバイト→学校で勉強→放課後、部活→少林寺拳法を習う→バンド練習という一日を過ごしながら、広島では地元の新聞に取り上げられる程の勇士として有名だったと紹介されている。主将を務め、試合中始まっていきなり相手を沈めたり、首を絞めたり、鼻を折るなどのラフプレーは当たり前だったという(吉川はそれを「水球は競泳+飛び込み+シンクロ+サッカーを採り入れた水上競技の最高峰だからこれぐらい当たり前」と解釈している」)。また、タイヤを持ちながら、本を読みながら、弁当を食べながら泳ぐという特訓も行っており、今でも海に行けば女性2人をそれぞれ自分の両肩に座らせる事ができると語った。これにはさすがの浜田雅功も呆然とした。最後に「水球よろしく!」と締め、これからの日本水球界の発展を願った。
ナベプロが制作していた『新春かくし芸大会』にも出演した。演目は、日本刀を使った竹割りや、殺陣。リハーサルの際、上手く竹を割ることが出来ず、日本刀が曲がってしまい、何本も壊した