吉 幾三(よし いくぞう、1952年11月11日 - )は演歌、コミックソング歌手、作詞家、作曲家である。青森県北津軽郡金木町(現在の五所川原市)出身。本名は鎌田 善人(かまた よしひと)。血液型はB型。父は民謡歌手の鎌田稲一。次女は女優の寿三美(ことぶき みみ)。
小简介
9人兄弟の末っ子。身長178cm、体重70kg。
初期はアイドル歌手として売り出したが成功せず、フォークソング路線の「俺はぜったい!プレスリー」で大ヒットを飛ばし、低迷期を経て演歌の方向性に移行し再度の成功を収めている。
数少ない演歌系シンガーソングライターとして、ほとんどの曲を自ら作詞・作曲している。青森県の津軽出身ということから津軽を題材とした曲が多い。演歌の世界は作曲家や大御所歌手への弟子入りなど徒弟制度的な色合いが強く、歌手は先生や師匠からいい曲をもらえるのを待つしかないと言われ、常に自作曲を歌う吉のような立場は例外的と言える。吉以外では、ニューミュージック出身でアリスのメンバーである堀内孝雄や、大御所として自作曲をいくつか持つ北島三郎や五木ひろしなどの例が見られる程度である。
酒豪としても有名で、『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)に出演する時には必ず、度数の高い酒を持参して志村けんと共に飲むのが恒例である。バカ殿を困らせる数少ない人物。
大事件
1972年3月1日 - 山岡 英二として『恋人は君ひとり』でデビュー。
1977年11月25日 - 吉幾三に改名、自作曲『俺はぜったい!プレスリー』発売。大ヒットとなり、映画化される。この後しばらく低迷する。
1984年3月25日 - 千昌夫への提供曲「津軽平野」発売。
1984年11月25日 - 「津軽平野」を提供した千昌夫のプロデュースを受け、背水の陣で臨み発売された「俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒットする。
1992年に『日高晤郎のスーパーサンデー』(札幌テレビ)に出演した際、生放送中に泥酔した吉がカメラの前で陰部を露出しそれが放送されてしまうなど、酒絡みのトラブルも起こしている。
相当な下ネタ好き。自作曲「と・も・子…」の語りに「とも子のはいてたパンティ、いっつもほおずりしてるの。たまにかぶって歩いたりしてるの」とあったり、『たけしのここだけの話』(関西テレビ)に登場した時「今日は美江さんに逢えると思って、昨日からオナニーしまくりました」と言ったり、『志村けんのバカ殿様』では怪しい祈祷師役で放送禁止用語を連発していた。
また、『独占!おとなの時間』(東京12チャンネル)では、当時人気のあったノーパン喫茶を紹介するコーナーのレポーターとして出演していた事もある。
恩人で盟友と言える千昌夫に影響されバブル経済期に莫大な投資を行い、バブル崩壊で大損害を被った…と自虐ネタを披露することも多い(バブル期、青森県に吉が建て、命名した「白亜の豪邸(別名:ホワイトハウス)」なる自宅を、生活苦を理由に売りに出したという話など)。
ハワイ州ホノルル市にある大型高級ホテル「シェラトン・ワイキキ」内の日本料理レストラン「吉屋」のプロデュースを行っているほか、また、郷里の金木町にて「いくぞうハウス」というタレントショップを経営していた(2008年5月31日で閉店)。
2007年10月19日、社会人硬式野球チーム「吉球団『ブルーズヨシフォレスト』」の設立を青森市内で発表。自身は総監督を務める。
2007年11月26日に催されたデビュー35周年記念パーティーの席で、3年前からC型肝炎を患っていたことを告白。現在は完治したとのことである。
2008年には「俺ら東京さ行ぐだ」などの楽曲が動画投稿サイトで様々な曲とミックスされたものが投稿され、これらがきっかけで、ニコニコ動画などではIKZOブームが巻き起こった。本人はこのブームを好意的に受け止めており、これらの制作者と吉幾三本人の協力でレコーディングされた完全新曲を収録したマキシシングルが発売されるまでに至った。